戦前日本のベストセラー『大義』(杉本五郎著)の解説連載第8回です。 今回は第六章「解党」です。現代語での大意を示したうえで、これを現代に生かすべく、私なりの解釈・解説を行います。原文はこちらの「大義研究会」のサイトでご覧ください。
第六章「解党」の大意
聖徳太子の十七条の憲法第一条
「和を以て貴しと為し、忤ふこと無きを宗と為す。人皆党あり。また達れる者少なし。これを以て或は君父に順はず……」
(和というものを尊び大切にし、抗争しないことが守るべき規範である。人には皆、党派心がある。またそのような心から自由になれる者は少ない。よって君主や親に従わず……)
実際、人は誰もが党派心にとらわれている。軍閥・政党・学閥・宗閥・財閥・無産閥・権閥または郷党というものがある。これらはすべて党派心の産物である。それぞれの首領に従って党閥の拡大に努めるばかりで、天皇に尽くす大義を忘れ去っていることはどれも同じだ。
それぞれの首領を主体と考えている点は、天皇機関説と同罪である。ましてや我が国の歴史を忘れて他国のまねをしようという連中に至っては論外、ここに例を挙げるのも日本人として無限の屈辱を感じるのでやめておく。
党派心にとらわれる者が多く、悟りを得た者は少ない。人々は争い合って我が国の存亡など気にも留めない。臣下は君主に、子は親に従わないという者たちばかりである。
では解脱を本旨とする宗教はどうか。ところがこれまた教祖を中心とする党派であって、教祖の命令を信奉して服従し、各宗派で争い合っているのは俗世間と変わりがない。
要は解脱どころか教祖の奴隷なのだ。日夜、仏前にお経を読んではいるが、天皇のお言葉を押しいただいて読む者はめったにいない。これでも宗教の日本化を言うつもりか。
最近の宗教家というと、誰もが日本化を主張する。そうでありながら、天皇陛下のお写真などを安置する者は極めて少ない。彼らの「日本化」という言葉は上っ面をごまかす手段に過ぎないのだ。
日本人は自分の子すら私物化してはならない。天皇陛下の子として育て教えなければならない。
陛下の子を学生や弟子として私物化するばかりか、勝手な思想を広めようとする学閥、多数派であるからと天皇の大権を強奪しようとする政党、軍を私物化しようとする軍閥、国民・国土・国富を私物化しようとする財閥、陛下と国民の間に立ちはだかろうとする権閥、多数でもって対立抗争ばかりを行ない、さらに独裁を目指そうとする無産閥、我が国を同郷の者たちで私物化しようとする郷党、皆ことごとく天皇に対する賊である。
速やかに無明の党派心から目を覚ますのだ。
そして全ては天皇に帰一させるための手段なのだという自覚、本来あるべき姿に立ち返れ。
大道は無門、千差路あり、
此関を透得せば、乾坤に独歩せん、
(悟りを得る大道には門はなく、あらゆる路からつながっている
この関所を通って悟りに到れば、天地の間で独り自在に歩めるであろう)
乾坤独歩、自由自在の大人物となって始めて、君臣一如の本質を理解することができる。
大道は解脱安心の境地に通じるが、そこに止まってはならない。
さらに迷わず次の一歩を踏み出し、天皇を仰げ。党派心は雲散霧消させるのだ。
大人物が気にかけるのは我が国の存亡、判断基準は大義のみである。
橘曙覧先生の歌
皇国の御ためをはかるほかに何
することありて世の中に立つ
解脱:悟りを得る、俗世の迷妄から自由になること
無産閥:社会主義/共産主義の労農政治団体
郷党:有名なところでは長州閥や薩摩閥
(解説)政党は解散しろ?
第六章は「解党」すなわち「党を解け!」。タイトルの字面どおりに受け取ると「政党は解散しろ!」となりますので、
「立憲政治抑圧の道!」「危険な天皇ファシズム!」などと思う人もいそうです。
とはいえ実際のところ『大義』のこの章が書かれた昭和11年当時、政党政治は国民から愛想を尽かされていました。
天皇機関説と政党政治の組み合わせで大正デモクラシーは進展し、昭和3年には普通選挙による衆議院総選挙を実現させます。しかしそれで正しい政治が行われることはありませんでした。逆にそれまで以上に舌先三寸の政治が横行。選挙で言うことと実際に行われる政治が違いすぎたようです。
第一次世界大戦後の不況に加え、関東大震災、世界大恐慌を経て、政党政治は国民の支持を失います。血盟団事件や五・一五事件といったテロに、国民は喝采を送る始末。
機能不全の政党政治は、やがて近衛文麿による昭和15年の大政翼賛会結成(政党の解消、一元化)へと流れていくわけですが……
(解説)問題は党派心
杉本中佐の「党を解け!」はそのような政党の解散自体を目的とするものではないと思います。
問題なのは党派心、すなわち「自分とその一味の利益ばかりを考える心」。軍閥や学閥などのあらゆる派閥も併せて批判されていることからも、それは明らかです。よって「党を解け」の真意は「党派心から自由になれ」だと解釈できます。
また十七条憲法第一条の「党」について、次のような解釈があります。
従来「たむら」と読まれ、「党」と略記されることの多かった「黨」は、「尚」と「黒」の会意文字で、元々は洗っても「なお・黒い」という意味であり、単に「党派」という意味だけではなく、「黒い」「暗い」「鮮やかでない」という意味もある。したがって、党派を形成する根元にある自己中心化・自己絶対化の心、無我という心理に暗いことつまり「無明」をも意味していると読むことができるという(金子勇『聖徳太子の心』大蔵出版、一九八六年、一六〇-一頁)。
『聖徳太子『十七条憲法』を読む』 岡野守也 大法輪閣 平成15年 p.77
(解説)「無我」とは天皇の大御心
「無我」というのは「無私」とも言えましょう。天照大神の心、天皇の大御心であり、国民もまた目指すべきところの境地です。
無明の党派心から目を覚まし、人々が天皇に心を寄せた時に生れるもの、それが「和」だと思います。
(解説)「和」の力とは
十七条憲法の第一条の続きはこうです。
然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
(通常、人々は党派心にとらわれているとしても、上はやわらかな気持ちで、下も温かな心で親しみ合って様々な問題について論じ合うならば、当然に、現実を正しく理論立てて認識できる。解決できない問題はない。)
「和」とは詭弁や論点ずらしの混じらない、「まともな議論、熟議」を導くもの。
「平成から令和へ! 真の「和」を実現することこそが、令和の時代の要請です。」
「事理おのずから通ず」……、哲学において「真理とは、我々の観念と実態の一致であるッッ」ですから、「和」による熟議があれば、おのずと「真理」を得られるということです。プラグマティズム哲学によれば、「真理」とは「役に立つ」「実益をもたらす」もので、これを得られれば問題解決に資すことになります。
(解説)「和」のための自由自在
五箇条の御誓文の一は「廣く会議を興し、万機公論に決すべし」ですが、
国家をきちんと運営し、様々な問題の解決を図るには「和による熟議」が必要です。
また、政治・経済・学術あらゆる方面において、団体・グループ・チームによる協議・協力が必要とされることは論をまちませんが、
そこでは天皇の大御心の共有がなければならない。
「党」でなく「和」でなければならないのです。
「党派心」をなくす、忘れるということは極めて困難です。特に現実の組織・集団の内においては。
とはいえ、ボス/党首の「奴隷」に甘んじるのでなく、天皇に通じる「無私の心」を持っていたいと思いませんか。そういった志を抱く人が一人でも増えていくことを願ってやみません。
党派というのがなんのためにあるのか、ということですね。
それは忠義、御国、天皇(大慈悲の大道の具現者的存在としての解釈として)の為でならなければならない・・、ということです。
全ての組織は忠義(天皇=大慈悲心の具現者的解釈の存在)の為にあるのであって、それは私利私欲のためのものであってはならない・・、ということでしょうか。
天皇と一体であるということは、自分自身も大慈悲心の存在であれ、存在となれ。ということでしょうかね。
つまりは、個々の組織は、個々人の大慈悲心の発露の為に、究極的にはあらねばならぬ、存在せねばならぬ・・、ということでしょうかね。この場合は。
いつもコメントありがとうございます。
究極の理想としては、天皇の大御心を自らの心とする個々人が、それぞれの適性や性向によって、ある目標を決め、団体・組織を結成し、「無私の心」で協力し合いながら、目標達成に邁進する。それは当然、天皇の大御心に適うこととなる。というようなことだと思いますが、まあ究極ですよね。
生活のために、党利党略ばかりの組織・団体に属しつつ、天皇の大御心に適うことを少しでも行えるよう努力する
というところから始めて、自らの修養をたゆまず重ねて大義に近づくのが実際でしょうか。その道を歩むにも、仲間がいるとありがたいもの。そういう仲間の集まりは「党」でなく「和」。その「和」が日本中に広がると「大和」となる……というのは、『軍神杉本中佐』(山岡荘八著)の受け売りです (^_^);
>そういう仲間の集まりは「党」でなく「和」。その「和」が日本中に広がると「大和」となる
なるほどなあ・・、です。
「“大・和”」ってのも、良いですねえ。